18年目の手紙
現在勤務している病院の小児科入院患者さんの多くは気管支炎・肺炎・胃腸炎などの急性疾患です。
しかし、大学病院にいたときは、半数以上が白血病や小児がんのこどもたちでした。
彼らは、数ヵ月の入院の後、外来や定期的入院での治療を続けて行きます。
急性疾患で入院するこどもたちも、もちろん可愛いのですが、
やはり、小児科医として特に印象に残っているのは
白血病や小児がんと闘っていたこどもです。
そしてそのなかでも、一番思い入れが強かったのは唯ちゃん(仮名)でした。
唯ちゃんは当時10歳の女の子。
彼女は、私が医者になった最初の年に大学病院に入院してきました。
自分にとっては、初発患者を担当するのは唯ちゃんが初めてでした。
色白で、きゃしゃだけれど、ほっぺはちょっとだけふっくらしたカワイイ子でした。
入院患者さんたちの検査や治療方針などは血液グループ長やオーベンが決めます。
自分はその指示の通りに動きます。
しかしそれ以前に、唯ちゃんのときは、検査・治療そのものが、自分にとっても全く初めての経験でした。
小児科医として唯ちゃんから育てられたと言っても過言ではないかもしれません。
頼りのない医者1年生でしたが、
一番下っ端なだけに一番唯ちゃんの近くにいるのでとてもなついてくれました。
毎日最低2回は病室に行きましたが、彼女が元気なときはくだらない話をし、
ゲームなどして遊んだりしていました。
そして、何かあると
"抱っこ~"
と言って抱きついて来てくれました。
また、このような病気の子は点滴を何度も何度もしなくてはいけないので、
多くの血管がつぶれてしまい、いい血管が無くなってしまいます。
すると、点滴自体がますます難しくなってきます。
治療が長くなった患児になると、
どの医者は点滴が上手くてどの医者は下手か、わかるようになります。
点滴されるこどもも必死なので、点滴のとき、
"○○先生は嫌だ!"
とはっきりと言ってきます。
しかし唯ちゃんは、
私が唯ちゃんに点滴するときも嫌とは言わずに手を差し出してくれました。
無事に最初の治療が終わり退院し、その後は外来と定期的な短期入院治療に移行しました。
外来で会っても、相変わらず可愛い笑顔を見せてくれました。
私が関連病院に出て、彼女と会えなくなり数年が経ちました。
最初は血液グループの先輩から、元気に通院しているとの話を聞いていましたが、
そのうち噂も届かなくなりました。
それでも、何かふとしたときには、彼女は今どうしているのかなと考えていました。
化学療法は進歩して予後は良くなってはいるものの、亡くなることもまだ多い病気です。
もし、亡くなっていたらどうしようという思いがあり、
怖くて、彼女の安否を大学の先生に聞くことは出来ませんでした。
それから更に年月が過ぎました。
自分の娘が当時の彼女と同じ年齢になり、
"抱っこ~"
と言って抱きついてくるとき、
そういえば唯ちゃんも同じだったなぁ と想うのでした。
もし、彼女が生きていれば美人さんになっているだろうな、と想像します。
そして、自分の娘だけでなく唯ちゃんも嫁に出すのは嫌だな、
などと芦屋雁之助の気分になってしまうのでした。
彼女と会ってから18年が過ぎたあるとき、
現在勤務している病院に一枚の写真葉書きが届きました。
誰だろうと思い、差出人の名前をみると、△△唯とあります。
もしかして唯ちゃん? そうであったら嬉しいけれど、そんな訳ないよなぁ。
期待を裏切られたときがっかりしないように心の準備をしながら、書いてある文章を読みました。
お久しぶりです。 旧姓 ○○ 唯です。
あのときは御迷惑をおかけしました。
この度、子どもが生まれました。
とありました。
そして、写真の葉書きに写っていたものは、双子の赤ちゃんでした。
彼女が生きていてくれたこと、
そして、幸せに暮らしていることがわかり、
心のどこかに引っ掛かっていたものが取れました。
そして、その写真を眺めていると、じわっと喜びが込み上げてくるのを感じました。
当然のことながら、芦屋雁之助の歌は自分の心の中に流れては来ませんでした。
新しい命が2つも生まれた。
そして彼女は、わざわざ連絡先を探して、それを教えてくれた。
小児科医になって良かった。 と、つくづく感じたのでした。
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